Sunday, October 31, 2010

碧痕28 棘の、その受肉

28 棘の、その受肉
 具体の極は大視症の極でもある。入水しようとして若い母が藤蔓を伝い下りている時に刺さる棘は、こうした大視症の極であり、それは、外から刺さったというよりは内から芽吹いたというようである。系統発生的に追い越して来た、久方の、青い淵の圧縮なのである。時間の感覚を失いながらピンで抜かれて行方知れずになる、この、ピンぼけの棘こそが、淵の底で抜け首のようにズルズル伸びるものの、乾燥に耐える形態である。
 江波恵子(幼い娘)に入って祟るのは、この、見えない棘である。私生児であることと捨て子の成り損ないであることの間に煌めくだけではない。ミッションの女学校の若い先生である間崎慎太郎と橋本スミ子の間に炎をあげる理想の衝突が実は婚姻色に過ぎないのに個の態度の煌めきであるかのように棘を芽吹かせつつ、青い淵に隠して、この尋常のひと対いと鬼子との間を引き裂くのである。鬼子をさらって保護するのは観音(大蛇)であるが、こうした、真偽、虚実の範疇の追いつかない暗黒を証明しなければならない野心があるとでもいわんばかりに、江波恵子は、そのひと対いの胎内だけでなくその器官の延長として分布する人々の胎内にも忽然と闖入してあばれる。届かないのである。青い淵に疚しさとなって潜伏する棘の、その受肉としての江波恵子は、ひさかた過ぎるのである。
 抜け首が細長く柔らかくどこまでも伸びるが何か届かなく、その「哀しい気持ったら誰も知りはしない」ように、棘もそこここでしたしく暴れるが瞬く間に遠ざかってしまう。

Tuesday, October 19, 2010

碧痕27 青い淵

27 青い淵
 女体と修行僧の間に、人と異類の間に、というふうに(変換は様々に)引き裂かれていることは、「私」というものを擬態として鎧う媒体性の、その、真偽、虚実の範疇が追いつかない(しかし、系統発生的に追い越された)分裂が、幻の縁として転写されたものである。
 「お前だってうろ覚えに覚えているにちがいない。お前が四つの時だったもの。そン時私はどうしても死にたくなって、お前を歩かせたりおんぶしたりして・・・」(「若い人」)つまり、
むかしむかし、若い母と幼い娘と、山間の、深い淵のあるところに行った。夏のお日様が明るく照って、燕がスイスイ飛んでいた。
 ふたりは、淵の上の草原で昼食をいただいた。「あの時のお菜は、卵焼きと、パイナップルの罐詰と、糸蒟蒻の煮付けと、川鮭の焼き物と、みんなお前の好きなものばかりだった・・・」食事がすんでから、ふたりは、それはそれは楽しくあそんだ。
 そうしているうちに、若い母は急に眠気におそわれた。「身体をそっくり土の中に沈ませて・・・手足の指先から、一本ずつの髪の毛に至るまで・・・静かな、長い長い、溶けかかるような・・・青く沈んだ淵の色、お日様の光を通す一本ずつの草の色、淡く涯てしない空の色・・・」若い母は幼い娘を誘ったが、幼い娘は睨まえるようにして、強く首を振るばかりだった。若い母はしんそこからムラムラ憤った。
 幼い娘は、草をむしってつめこむのに懸命で、若い母は、花でも摘みとるようにいそいそと、背丈ぐらいの崖を藤蔓につかまって水際に下りていった。「その途中で私は何かの細い棘を右の人差指に突きさした・・・痛かったこと・・・私は片手を藤蔓にからみ、頭のピンを用いて人差指の棘を抜きにかかった・・・」静かだあ、若い母は、それぎり青い淵に溺れていった。
 眼をあくと青い藻草がなびいていた。お日様の光がうすぼんやり底まで届いていた。「小魚どもも尾鰭を利口そうにふり動かして泳いでいたし、その可愛らしい目玉でみなけげんそうに私の方を盗み見するので、私は笑い出したくなって苦しくてたまらなかった・・・」
 ふと気がつくと、そこは、広い広い荒れ果てた野原で、しかも天地のありさまがただごとではない。明るくなったかと思えば薄暗くなり、また明るくなり暗くなり、異様な物音が襲いかかるような、そんなおそろしい野原に、人といえば幼い娘たった一人ぎりで、一つ処をグルグル駈け回っていた。「足だけ高く上げるが一向前へは進まないような走り方でね。眼の色が据って、声もたてず・・・天地のありさまがただごとでないものだから・・・」
 若い母は助けずにはおかないと決心して、水の上に浮き出そうと藻掻いた。すると浮くのではなく、身の丈が一丈も二丈もズルズル伸びて、身体中が抜け首のように柔らかく細長くどこまでも無気味にズルズル伸びていく。「その哀しい気持ったら誰も知りはしない・・・やっと岸に匍い上がると・・・私は藤蔓にすがって出来るだけ身を逆しまにして水を吐き出した。崖の上によじ登ってお前を見ると・・・天地は暗くなり明るくなり上下左右に回転しているような中で、お前はやっぱり青草をつめた赤い子供靴を後生大切に抱え、眼を白くひきつらせ、声もあげ得ないで、一つ所を足だけむやみに高く上げてグルグル駈けまわっている・・・」
 若い母は四つ足で匍い寄り、目の前を駈け過ぎようとするのを人さらいのようにしっかと抱え込んだ。「お前は人形のように軽かった。」気力が抜け切って倒れるばかりのところだったが、幼い娘の手足はなおもピクピク駈け続けていた。青空には浮雲が漂っていて、お日様を遮り、地面が翳ったり照らし出されたりして、櫟林はざわめいていた。「でもそんなことがなんだろう」
 若い母がというより幼い娘こそがうっかり宝を失くしたために、妖邪が覚醒したのである。幼い娘は、若い母以上に眠り濃くずうっと年をとった若い母を(淵のヌシにさらわれる、というふうに)孕んでしまう。幼い娘は保護されたのではなく、淵に抱き竦められたのであり、抜け首のように伸びる大蛇の気を吐き出した若い母の、うっかり400 年も過ぎ去っているような、その帰還とは、その幼い娘が年頃になってその淵に連れ戻される、そうした約束なのである。こうした、引き裂かれた覚醒が、鬼子の誕生である。若い母がズルズルどこまでも伸びて大蛇にならないように、器官の延長としての鬼子が切り離されたのであるが、それは抜け首のように伸びる若い母を孕んでしまう。青い淵の如くである。
 青草を赤い子供靴に強迫的に詰め込むのは、宝を(持っていたとも知らずに)水中に見失ったことの埋め合わせなどではなく、これから見失うことの埋め合わせを発作的に模写しているように、一つ処をぐるぐる駆け回るのは、孤児のように取り残されている孤独から空しく遁走しようとするのではなく、これからうっかり宝を見失うことを通して擬態として鎧うことになる孤独からの遁走の、その空回りを前触れている。更には、宝を見失うことを通して青い淵から脱け出そうとしても青い淵に連れ戻されてしまうことを、円を以て、更にはまた、擬態として鎧われた直しさが解けた天地の青さの、ものでも場所でもない、その、久方の、具体の極のピンぼけに面して、痙攣を以て、模写発作が起きているのである。

Saturday, October 16, 2010

碧痕26 鬼子の誕生

26 鬼子の誕生
 「・・・お前らの学校ではマリヤ様が神霊に感じて孕んだということになってるじゃろうが、ミス・ケートさんがなんと頑張ってもあれだけは嘘じゃ。もっとも人間の社会生活にはあんな嘘が必要かも知れんて、昆虫の生活でも鳥の生活でもよく観察すると、嘘と名づけてよいかどうか疑問だが、ともかく最後の一カ所にあいまいなぼうっとしたものがあって、それが彼らの群居生活を円滑ならしめている・・・」(「若い人」石坂洋次郎)
 極まる最後の、曖昧にぼうっと霞がかかるところ、それは嘘なのではなく、消されていた嘘の気配が息づくところ、しかし、鎧われていた直しさこそは嘘(架空)なのであるから、この奇怪な擬態が解けるところなのであり、この擬態に打ち消されて疚しさとなって潜伏していたものは、嘘なのではなく、真偽、虚実の範疇が追いつかない媒体性である。受胎告知が何よりも嘘じみてしかも何よりも本当らしくゴーストがかかって迫るのは、真偽、虚実の範疇が暗礁に乗り上げたからであり、嘘の気配を消す擬態が解けて嘘としての直しさが剥き出しになったからである。具体の極は、ゴーストがかかってピンぼけであるが神通であり、その擬態としての伝達が生活を分業に於いて組織する。受胎告知のマリアが宙に浮かずに日々の生活に組み込まれるとすれば、それは、生贄であることを専ら引き受けて、人々は生贄であることを蜥蜴の尻尾のように切り離していられるからである。

Wednesday, October 13, 2010

碧痕25 一滴の露

25 一滴の露
 素材としての粘土に形式を与える、すなわち熱平衡から取り出すことは、形式としての陶器が具体としての陶器となって化けて出ると同時に潜伏することである。それは、Ghost に属さなくなることを通してGhost に属する神通である。この裂目(Ghost のかかる具体)に面しての生体反応の一つが嫉妬である。
 宝が持主の接近に応答して光り出すのも、こうした裂目の覚醒(神通)であり、熱を孕んでいた宝は、持主に属さなくなることを通して光り出す(持主に属する)のであり、従って、宝というものは光り出している限りで持主の掌中からこぼれ落ちていて、それは盗まれているようなもので、私有制が追いつかない。
 宝の持主であることに面してそのことが疑わしい嫉妬(下病み)の世俗化は、宝が盗まれていること(つまり、器官の延長としての他の誰かの接近に応答する如くに光り出している宝)に面しての生体反応である。孫悟空と妖怪変化との戦いが互角であるのは、その戦いが、妖邪に応答する如くに光り出している宝(武器)に面しての生体反応(懐疑、嫉妬)だからである。神通としての如意棒(宝)をうっかり見失っているために、妖邪と盗まれた宝が覚醒しているのである。
 そのようにして引き裂かれていることに面して、模写発作としての嫉妬は、うっかり見失った宝が他の誰かに応答する如くに光り出して(盗まれて)、祟られているのである。
 道成寺の異伝では、鐘に隠れた若い修行僧は蛇体をあらわした瞋恚のほむらに鐘ごと巻きつかれ、抱き竦められて灰になるのではなく、一滴の露になる。その露は、瞋恚の炎熱に蒸発するのではなく、高熱を孕んで結ぶのである。若い僧がいつか通りかかるのを漠として待ち侘びていた女体に応答して若い僧が光り出したのは、このmetamorphosis の前触れに過ぎない。蛇体が宝としての露をうっかり失くしたために妖邪としての若い僧と一滴の露が(盗まれたように)覚醒しているのであり、この、若い僧こそが蛇体の器官の延長である、誘惑の逆転と、若い僧と一滴の露の生贄のような収斂を通して、夢のように引き裂かれていることに面して、なごり惜しさと瞋恚は、この逆転と収斂の通路を逆流する。蛇体と若い僧との互角の追跡と遁走は、この逆流である。

Sunday, October 10, 2010

碧痕24 青い山脈

24 青い山脈
 眺めや思い出は、景観や歴史とは違う。それは、もうすぐ近くに見える(しかしその方角へ自転車を漕ぎ出すと遠ざかる)青い山脈である。
 それは近くして遠い長目の効果に包まれて、陶然とするだけでなく、何か惜しいというような、何か届かない、ピンぼけのような生体反応が起こる。盆地や、里山や鎮守の杜、松原が、時として何か胸ぐるわしく、杳か迫るとすれば、それは、日本の一般的景観に解消されていないのである。景観としての里山や松原は跡形もなく破壊されるとしても、長目の効果ははじめから跡形もない。景観の保存を通して保存されるようなものではないのである。
 こんなにも近いのに遠い、といった失調、こんなにも新しいのに古い、といった失調は、(霊としての)蒼い水脈を映し出す「青い山脈」(石坂洋次郎)の、その即興性、占領下の奥羽地方のつがい形成を間に合わせの素材にして思いがけなく出現した「青い山脈」が息洩らしている蒼い水脈の気配、その、何よりも身近で何よりも疎々しい気配が、地上に転写されたものである。こんなにも思いがけないのは(従って)予期されていたのであり、しかも打ち消された予期は疚しさとなって潜伏して脅かしかけるのである。しかし、薄気味悪く迫るというよりは、蒼い水脈に矛盾しない範囲でずれる即興の、その、ずれから、何か惜しい、何か届かない、というようにピンぼけなのである。
 恐らくは、柳田国男が報告している「何をしようか、というような春愁」も、到達・保存の衝動が範疇的、模写的ではなく、そうした擬態を解いた衝動(化)に面して、具体の極に面して、その、間違ったようなしかも無謬のずれに面しての生体反応である。 

Monday, October 04, 2010

碧痕23 零度の光

23 零度の光
 魚が水に和する如く、現在は遥か打ち消された不在を媒質とする。魚が陸に上がって酸素を欠くように、潜伏する不在に現在が被曝する、その窒息、胸ぐるわしく胸塞がれる生体反応が、なごり惜しさである。この世のものの、その現在が、打ち消された不在の潜伏の効果として場所・空気をおくられることであるために、つまり、地上のものが今と寿命を鎧うのは、媒体性が疚しさとなって潜伏する効果として地上・大気をおくられることであるために、被曝に於いて、この世は宙に浮き(真空化し)、この世のものは遠くして近い長目の効果に包まれて届かなくなるのである。
 コンナニモ近イノニ遠イ何カに面しての生体反応はなごり惜しさであるが、キングコングの掌にすくい上げられる美女や、かぐや姫の場合のように、或いはエリアに顕れたアリスの場合のように、この生体反応が面する裂目は、様々に分割されて展開するが、おしなべて、一つには棲息する媒質の違いに引き裂かれ、或いは潜勢と現勢の違いに引き裂かれるのである。
 子供の頃、エリアが部屋から部屋へさまようごとに深くなっていく屋敷の奥行は、その圏外までに及んでいて、大きくなって小川に過ぎないことが分かった屋敷の外の水の気配は暗かに湖の気配にまで膨れ上がっていた。紋章を伝えて来た一族が去った屋敷の、その構造と歳月をなぞりながら、エリアの血液は一族の血液に変化し、或いは十二シイザアの胸像と吐息に囲まれてエリアも頭像の如くになり、温室の日向に身をおいてはオレンジやライムとともにエリアも熟していく、というふうで、つまり、環境の網膜像が体表はおろか内部にまで転写される、というふうであったが、この二重性は保護的というのではない。孤独を鎧うようで実は解いているのである。零度の光に面して、届かないのである。エロスは到達・保存の衝動であるが、擬態を解いたエロスの、その、出現すると同時に潜伏する化に面して、生体反応は届かなさなのである。

Friday, October 01, 2010

碧痕22 零れる光

22 零れる光
 小綬鶏が仮のすがたを現わした端末を更に模写する受胎、仮のすがたを二重に模写する複受胎を通して、仮のすがたは自生す(るかの如くにな)る。虚構の気配を消すのである。しかし、負の実在から離脱するのではない。この、虚構の気配を消した(負の)実在は、料理のようなもので、摂食し易くなっている。「足柄山のお夏」は皮をむかれ、種は吐き出されている。しかし、この俗塵の平凡も、端末性や2040年の気配に被曝しては平凡の程度がとり消される。光り出すのである。
 仮のすがたを現わしたアリス(エリアに生まれ出たかもしれないアリス(「Essays of Elia」C.Lamb))が薄れるとも遠ざかるとも、縮むともつかず消えるように、生まれ出たとしても仮のすがたを現わすこととしての端末の(子孫が祖を孕む)受胎性から、アノ時ノ小綬鶏ハ私デス と告げられて、もう何も届かなくなるような無量のなごり惜しさを、この世の誰に告げればよいのか、という思いはなおらない。
 擬態(寿命を鎧った俗塵)を脅かす気配への漠とした気懸りの、その拘束に於いて、ミステリを次々と解くことは擬態をほどくことではなく、或る秘密から別の秘密に入れ替わっているだけで、それは、突破しても次々と入れ替わる妖怪変化の、その正体が暴かれても、三蔵法師一行を脅かす気配への漠とした気懸りは消えない、その如くである。どちらの解決も虚構の気配は消すが、それは、漠として気懸りな気配の潜伏の効果なのである。延々と続く庄野のカノンは、この気配に被曝することに衝動があって、虚構の気配を消していた俗塵が忽然として光り出す、その、寿命のない光をあくことなく(しかしどこかに届きそうになく)惜しむのである。
 虚構の気配を消して粒や波であるのではなく、零れることそのものである光に面して、惜しいのである。