Thursday, May 05, 2011

碧痕67 彦根の城に雲かかる

67 彦根の城に雲かかる
 時刻になると、五六騎出て来て鳥羽殿へ急ぐ、そういう仕掛けの時計が、その、太陽系を模写した機械仕掛けの気配を消している、というふうに支配する領土に満ちる光は、盲目的に何か新しい(未知の)ものを探って伸びる。それはどんなに満ち拡がっても覗き穴を通って伸びる。しかし、その延長の極に於いて、新しさを拘束、制限しながら約束している予期の光は何処にも届かなくなる。範疇も真偽も序列も追いつかない化に於いては、光も速度を盗まれるのである。
 遅き日のつもりて遠き昔かな(蕪村)
 いつの間にかこんなに遠く来てしまった、という思いは逆効果に包まれる。距離を月日で除そうにも重力が失効しているために、その浮力がもの凄い疾走に変換されて何か距離とは違うものになってしまったり、家郷を遠く離れると時計がひどく遅れる、と感じられたりするのである。位置が確定しないために、遠く来てしまった、ということすら打ち消されてしまう。だから蕪村は、生き埋めに抗して、「遠き昔」から届いた底光に速度を渡そうと藻掻き、水を蹴る。
 春風や堤長うして家遠し(蕪村)
 この、春風に引き延ばされるかのような距離は、薮入りの娘にとっては待ち遠しさそのものであるが、時計がひどく遅れている蕪村にとっては家路を遠くする逡巡である。「歩行歩行(ありきありき)もの思う春の行衛かな」で蕪村は、行く春を惜しむのではなく、もの思えば我あり、というのではなおさらなく、「今日のみの春を歩いて仕舞」って出た断崖で、立ちおどむ。それは、自由や孤独の如き確定なのではなく、白「梅遠近(おちこち)南すべく北すべく」また「あちこちとする」ウグイスの小さな沸騰のように、平均化すると法則的に分布、出現しているようで測定が追いつかない。来る年も来る年も、「芳草を慕いて去り、落花を逐うて帰る」というように見失うのである。
 白梅に明ける夜ばかりとなりにけり(蕪村)
 死の床に横たわっているはずなのに、断崖に出て立ちおどむ。何処かに到達しようとするが「橋なくて日暮れなんとする」のに、夜が白々と明けようとする。もの思えば寿命を鎧って我あり、というのではなく、覗き穴を絞り込んだ極限で、無量のピンぼけの「春の海」のようにひねもす何か届かぬ思い、何か届かぬ光を孕む「白梅」は、器官の延長の気配を消せないままに(つまり、ピンぼけのままに)、来る年も来る年も届きそうでいていつも見失っていた約束の「白梅」の、光の放射の、その目印が残るに過ぎない。
 鮒鮓や彦根の城に雲かかる(蕪村)
 この浮雲は目印なのか、無量のピンぼけなのか。生き埋め状態の水底から息を継ぎに浮上して来たのか、頑固に今を主張して鮒鮓を咀嚼する音が被盗聴の状態にある水底なのか。
 つまり、被曝なのか。
 カーストに分節して遡上するのは、水面に出ようとして水を蹴るのである。

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