Tuesday, August 30, 2011

碧痕100 蜥蜴の尾の霊

100 蜥蜴の尾の霊
 ナチは、亡命や自殺したユダヤ人ではなく、嵐が過ぎ去るのを待つようにユダヤ人狩に忍従するユダヤ人を素材にして「ユダヤ人」(余計なもの)を大量に模造する。この模造にも個は出現するが、その新しさ、突出を削り均して、誰とでも入れ替わり、序数ですらない「ユダヤ人」を消去しようとして、いつまでも満たされない。というのも、それはナチの鏡像だからである。この鏡像が死体に変脱して鏡像でなくなるようにすること、それが「ユダヤ人」に面してのナチの処理であるが、死体に面しては、どう振る舞うか、本能的な拘束も約束もない。凡庸にも穴を掘って埋め、土をかけて地ならしする、そのようにして生き延びる優越は、余計なものを程度として世俗化する。双子の霊の気配が消えるのである。
 アフリカの草原に群がって飽くことなく移動するムーの子の、その六頭中五頭までが天敵の餌食になる。一頭のムーの子が生き延びるのに五頭が犠牲になることは、移動するユダヤ民族に当てはまるだろうか。六百万のユダヤ人が迫害を蒙り、犠牲になることは、何人のユダヤ人が生き延びることなのか。生き延びるユダヤ人と犠牲になるユダヤ人の差異は、何か。ここでは、犠牲であることは余計なものであることではなく、器官の延長であり、五頭が生き延びる一頭を代表すると同時に代表しないために、犠牲になる(切り離される)のである。

Friday, August 26, 2011

碧痕99 ナチズムの霊

99 ナチズムの霊
 化の擬態は、その平均化、単純化に祟り返している複合・零度を(あたかも分割するかのように)それと知らず使いこなす技術である。それは被造物であることの世俗化であり、更には大衆化にいきつく。大衆化は、被造物に顕れる不正(個や新しさといった尖り、ずれ、傷)を削り落とし、滑らかなクローンやキッチュ、消耗品であることに気づかないためであるかのように消費する、といったふうに器官を延長する様式である。そこでは、個性や新しさもキッチュであり、クローンであり、そのことに面して神経衰弱も履歴改竄も起こらない。これは、生産と消費を分業する貴族制的な器官の延長の様式の対蹠点である。大衆であることは、消耗品に「顔(理想)」が感染保存されているために自身消耗品であることが度忘れの状態にあること、或いは、消耗品に面して自身の「顔」のようなので驚き、驚かないためであるかのように消費することである。
 ナチズムの霊、それは、大量に消費されるユダヤ人に顕れた消耗品であることを度忘れしていられるようにユダヤ人を生産する分類装置であり、「大衆であること」の新興様式である。
 要素が起源を代表する単純化とそのエラー状態の間に、ナチズムは振動する。それに先立って、極端に平均化された大衆の、その平均化は「私」という突出を脅かすために、大衆であることは平均化から藻掻き出ようとして、部分が全体を代表する(一世代が全世代を代表し、要素が起源を代表する)写真撮影の如き単純化へ振れる。しかし、代表することは媒体であることである。ナチズムが猖獗を極めるのは、単純化のエラー状態に振れた場合で、序列、命令系統、世代系統の至る処で、代表することの優越が取り消されて履歴改竄が起こり、誰とでも入れ替わり、監視と被監視が入れ替わり、器官の延長と消耗品と余計なものとが区別がなくなり、大衆であることとユダヤ人であることに、互いに余計なものに似ようとする双子の霊がかかることになる。
 優劣の分業のためにナチがユダヤ人を保存することはない。別の素材で余計なものをいくらでも生産できるのである。双子の霊は最終的には内攻する。それは、義歯、義手、義足、内臓移植、眼球移植、骨髄移植というように順次置き換えていった末に何が置き換え難く残るか、という実験に酷似している。

Saturday, August 20, 2011

碧痕98 分極(強制収容所と亡命)

98 分極(強制収容所と亡命)
 個々のユダヤ人は通り魔に襲われた。しかし、強制収容所の個々のユダヤ人は誰もが種としてのユダヤ人を代表して選び抜かれているために他のユダヤ人の誰とでも入れ替わるのであり、発症しているのは、生贄であることではなく、履歴改竄である。一方、亡命したユダヤ人に発症したのは神経衰弱であり、身体を移り変わる代わりに別の国に移住したのである。これが、ナチに面して、ユダヤ人の日常の半解脱(エラー状態)の二つの相、それに照応する二つの生体反応である。ユダヤ人は、自由、孤独、思考の危機に曝されて、熱平衡と大視症とに分極した。

Thursday, August 18, 2011

碧痕97 双子の霊

97 双子の霊
 通り魔と被害者の裂目には海底がのぞいて震盪している。被害者に生贄であることが顕れたために通り魔は通り魔もそのことに被曝していることを度忘れしているが、しかし、それは喉元まで上り詰めて来ている。
 これは、ナチと六百万のユダヤ人の間にもちあがったことであり、神と被造物の間にもちあがっていることの半抽象である。すなわち、過ぎ去らない衝撃が半ば過ぎ去っている。それが過ぎ去っているというのであれば、それは単に程度としてのホロコーストに零落(世俗化)する。
 被害者が身につけている「私」というものが地盤を奪われるように、通り魔も何かを想い起こしかけているようで実は何処かからか命令が届くように予期して震えているのであり、それが、総掛かりの陰謀の肉薄のような、或いは、単独で催眠術にかかっているような、被曝なのである。
 アブラハムとイサクの間にもちあがったことも、出来事として到達・保存されない。神は通り魔の如く到来・通過し、その本質(その証明)が被造物であるのならば、ナチの本質は六百万人のユダヤ人であるのだろうか。とすれば、この対い形成には、互いに余計なものに似ようとする双子の霊がかかっている。

Monday, August 15, 2011

碧痕96 「黒い料理女」の気配

96 「黒い料理女」の気配
 起源の移動(すなわち媒体性)は、法則的、歴史的到達・保存の、その擬態の気配が消えている限りで打ち消され疚しさとなって潜伏しているが、擬態の気配が消えないで(すなわち、擬態が半ば解けて)疚しさとなって潜伏しているものが露頭すると、それは薄気味悪く迫る。あの「誰かがいる」という気配が、擬態として鎧われた「私」というものを(自由、孤独、思考を)脅かすのである。或いは、惰性を鎧った日常性が宙に浮く。「私」というものも日常性も、この薄気味悪く迫る気配(化の気配)の鎧う擬態であるから、遁走は空しい。虚構の気配が消えることと消えないこととの間に振動するだけである。この薄気味悪く迫る気配は、総掛かりでどこまでもつきまとう陰謀の包囲する気配に変奏されたりするが、オスカルのブリキの太鼓は「黒い料理女」の気配に変奏する。
 「ぼくは、黒い料理女がどの駅で姿を見せるか、停車するたびに恐怖の思いで待っていたが・・・もしかしたら、黒い料理女は隣の車室に坐っていたかもしれない・・・ぼくはこれまで、黒い料理女を恐れたことはなかった。逃走中恐れたいと思ったからこそ、初めて彼女がぼくの皮膚の下に這いこみ、そこにおちつき、たいていは眠ったままなのだが・・・今日に至るまでそこにいつづけ、いろいろな姿をとって現れる・・・ぼくがとくに気づいたことは、まず第一に、メトロも列車と同様、異なったリズムでではあるが、黒い料理女のことを訊ねたことであり、第二に、ほかの乗客も全部、ぼくと同様あの料理女と馴染みであるにちがいなく、、ぼくの計画は、メトロでイタリア門まで行き、そこからタクシーを拾ってオルリー空港へ行くというのだった・・・料理女はスチュワーデスに変装している・・・ぼくはイタリア門の一つ前の駅メゾン・ブランシュでおりた、なぜなら、彼らがイタリア門で待っていると、ぼくが思っているだろうということを、彼らはむろん考えていると、ぼくは考えたからだ。しかし、彼女は、ぼくの考えと彼らの考えを知っていた・・・このメトロ駅には、エスカレーターが備わっており・・・あのエスカレーターのカタカタいう音が、「黒い料理女はいるかい?いるいるいる!」を響かせた・・・そして上では彼らが待っていた・・・ぼくより二段上では、あつかましい恋人同士がふざけ合っていた。ぼくより一段下には一人の老女がのっていた・・・あの上に立っているのは、『シュピーゲル』の連中でも、外套のポケットにバッジを入れているあの紳士たちでもない、上に立っているのはあの女だ、料理女だ。あの女が、エスカレーターをカタカタ鳴らして「黒い料理女はいるかい?」と言うと、オスカルは、「いるいるいる!」と答える・・・上のほうを見やると、しかし、オスカルの眼に、目立たぬようでどこか目立つ顔の紳士たちが普通の雨傘を持って立っている姿がうつった――だからといって、黒い料理女がいないということにはならなかった・・・ぼくはだんだん高く運ばれていった。ぼくの前上には、厚かましい恋人たち。ぼくのうしろ下には、帽子をかぶった婦人。外は雨で、上方、ずっと上には国際警察の紳士たちが立っていた・・・ぼくはオスカル・マツェラートとして逮捕された・・・外のイタリア通りには雨が降っていた・・・そして事実何度もここかしこに・・・通りの群衆の中に、警察の箱車をとりまく人だかりの中に、黒い料理女の恐ろしくおちついた顔を認めた・・・つまり、昔ぼくを階段でこわがらせたもの、地下室に石炭をとりに行ったときワァーといって、ぼくを思わず笑わせたもの、しかしいつもちゃんとそこにいて、指で話をし、鍵穴から咳をし、ストーブの中で溜息をついたもの、それが、ドアとともに叫び、煙突からもくもくと煙をあげたものだった。霧笛が鳴ったり二重窓のあいだに一匹の蝿が何時間も死んでいたりするときに、また鰻どもが母を欲しがり、ぼくの可哀そうな母が鰻を欲しがったときもそうであったし、太陽が塔山のうしろに消え、琥珀となってみずからのために輝くときもそうであった!ヘルベルトは、あの木像を攻撃したとき、だれのことを考えていたのか?本祭壇のうしろにも――すべての告解室を黒くしているあの料理女がいなければ、カトリックとはなんであろう?彼女はジーギスムント・マルクスの玩具が壊れたとき影を投げた。そして、アパートの中庭で腕白やお転婆ども、アクセル・ミシュケとヌヒー・アイケ、ズージー・カーターとハンス・コリンなどが、赤煉瓦のスープを沸かしながら・・・いつでも彼女はちゃんときていた。森番沸騰散の中にさえいた・・・ぼくがこれまでうずくまったどの洋服箪笥の中にも、彼女はやっぱりうずくまっていた。後に、ルーツィエ・レンヴァントの三角の狐面を借りうけ、ソーセージのサンドイッチを薄皮ごとがつがつと食べ、塵払いたちを飛び込み台の上へ連れて行った――オスカルだけが後に残り、蟻を眺め、そして、幾倍にも増えて甘いものを目がけて行くその蟻が、実は彼女の影であることを知った・・・」  オスカルは黒い料理女が誰なのか、尋ねない。なぜなら、それは以前に、極度の近視の犬に変装してオスカルをつけ狙ったり、悪徳に変装してオスカルの背中の瘤に潜んでいたりしたが、これからは面と向かってオスカルに迫って来るからである。
 しかし、それは、死ではなく、起源、移動する起源としての「ポーランド人の国」である。

Friday, August 12, 2011

碧痕95 「ポーランド人の国」の振動

95 「ポーランド人の国」の振動
 エウロペ(Europe)にかもめのように群がり満ちて誰とでも入れ替わる白衣の看護婦たちと背に瘤のある小男に身を窶した放火犯の侵入を、ウラとオスカルの一つがいが美術学校のモデルとして模写することは、その二重の抽象を通して、「ポーランド人の国」をあるかの如く約束する。ルーツィエ・レンヴァントの悪徳の三角形が虚数としてオスカルの悪徳の瘤に対抗するように、小括弧のとれたアルカノ如キ「ポーランド人の国」が小括弧つきの(アルカノ如キ)「ポーランド人の国」に対抗するが、この対抗は、括弧がとれたりついたりする振動のようなもので、虚構の気配が剥き出しになったり虚構の気配が消えたりするのである。つまり、ブリキの太鼓が叩き出すのは、天空の密通が有性生殖のエラー状態(発芽、起源の移動)と有性生殖(世俗の密通)の間で振動することである。その振動に感応して、オスカルは94センチの幼虫と蝉脱するせむしの間に、放火犯の、幼虫とせむしの間に、天空と地上の、放火犯の間に、いつまでも満たされずにゆれ動くのである。
 この振動は地上に強迫的に転写されて果てしもなくなる。白衣の看護婦と別の白衣の看護婦の間に、白衣の看護婦と黒衣の尼僧の間に、マツェラートの洋服箪笥とドロテーアの洋服箪笥の間に、四枚重ねのスカートと洋服箪笥の間に、洋服箪笥と告解聴聞室の間に、聴聞と窃視の間に、覗き穴と静寂の間に、ダンツィヒ市の炎上とヨーロッパの炎上の間に、放火と密通・誘拐の間に、馬の生首・鰻と一寸法師の間に、発芽と系図の間に・・・

Monday, August 08, 2011

碧痕94 「ポーランド人の国」の方解

94 「ポーランド人の国」の方解
 過ぎ去っていない衝撃が半ば過ぎ去っている持ち越し、海のゆれ動きの如く寄せては返す白衣の看護婦と赤十字、ロッテという名の看護婦(プラウストの人)、ホラッツ博士のところの看護婦インゲ、エルニとかベルニとかいったポーランド郵便局防衛戦後の看護婦たちの中の一人、ハノーファー大学の名もない看護婦たち、デュッセルドルフ市立病院の看護婦たち、なかんずくゲルトルート、ツァイトラーの住居にオスカルと同じく間借りして住んでいた看護婦ドロテーア・ケーンゲッター、マリア病院と呼ばれている最寄りの乗車駅や病院の煉瓦造りの玄関や前庭、そしてビットヴェークでも看護婦たちはオスカルに見てもらうためであるかのように世界を過る。帰って来る足音や隣室の物音がドロテーアに拡張すると同時に一気に足音や物音に収縮し、浴槽の方へ林檎を転がさずにはいられないほど静寂が耐え難く、静寂が覗き穴になるスリル、盗み見るドロテーア宛に二通目、三通目と届く葉書の差出人エーリヒ・ヴェルナー博士がオスカルに覗いてもらうためであるかのように気配づく。つまり、あのマツェラートの洋服箪笥の暗がりに導かれて練習した告解聴聞、形相を変えて移動して来ていた「ポーランド人の国」の微細な光景が、失われてしまいまだ失われていないのである。

Saturday, August 06, 2011

碧痕93 列挙癖

93 列挙癖
 新しい天体の影響の下で(もう一つの半解脱に曝されて)、オスカルは神経衰弱と知恵熱に浮かされたが、それは、法則的到達・保存のエラー状態(みひらく裂目)に面して、模写発作の二つの相すなわち戦慄と惚恍に対応している。オスカルが叩き出す列挙癖は蒐集癖の変奏で、その模写発作は惚恍であり、飽くことを知らない。
 X型十字架(聖アンドレア十字架)、ラテン十字架あるいは受難の十字架と並んでギリシャ十字架、二重十字架、撞木杖十字架、階段十字架、前足十字架、猫十字架、クローバー十字架、槍十字架、マルタ島十字架、鉤十字、ドゴール十字架、ロートリンゲン十字架、アントニオ十字架は海戦のときT字形と呼ばれ、耳つき十字架は鎖につながれ、盗賊十字架、教皇の十字架、ロシア十字架はまたナザレ十字架と呼ばれ、さらに赤十字、禁酒同盟の青は青十字を結び、黄十字(イペリット)、十字蜘蛛、
巡洋艦(クロイツァー)、十字砲火、十字軍、反対(クロイツ)尋問、
 墓石の素材としての大理石、砂岩、エルベ砂岩、マイン砂岩、キルヒハイム石、グレンツハイム石、アイフェル石、ラーン石、ベルギー花崗岩、凝灰岩、玄武岩、輝緑岩、白雲石、雪花石膏、青層大理石、
 不断の平均化に曝されているのに置き換え難くしかもそのどれもが入れ替わる幸福、この、列挙、蒐集を貫く忽光は、神経衰弱や履歴改竄の、その、到達・保存のエラー状態の眩惑と源泉を同じくしている。すなわち、半解脱であり、化じみていて真も偽も、自由も孤独も思考も、序列もなく、意味も価値も半抽象で、いつまでも満たされない。

Wednesday, August 03, 2011

碧痕92 せむしの瘤、受胎告知

92 せむしの瘤、受胎告知
 一寸法師オスカルがかつて世俗の密通と審判を窃盗として証明しようとしたように、有性生殖のエラー状態を蝉脱した有性生殖の相の下では、せむしの瘤や水頭に湛えられた消毒薬のようなものは世俗の悪徳としての密通と裏切りであることを証明しようとしているかの如くである。この悪徳は、有性生殖の根底の擬態、法則的、歴史的到達・保存といった虚構の気配をいきなり消すのであり、この効果が逆作用する限りで悪徳なのである。擬態の気配が消える限りで(疚しさとなって潜伏する限りで)、妥当要求や審判が発生し、悪徳に対抗するものが(あるかの如く)約束されるのである。
 ところで、天空の密通と密告を模写して世俗化したせむしの瘤をさらに抽象したものが、ルーツィエ・レンヴァントの三角の狐面である。その悪徳に面してオスカルが憎悪せずにはいられない魅惑は、白衣の看護婦たちが寄ってたかってオスカルの瘤をなでずにはいられない幸福に酷似している。つまり、せむしの瘤は、受胎告知を地上の尺度で測定しようとして反転している。