碧騒290 個体の震撼
290 個体の震撼
最後の審判(終末と復活)は、我々が何処から来て何処へ行くのか分からなくしてしまう。黙示録に面して、個体の震撼、狼狽振りというものは、寿命を鎧う個体の、その個体性が解けなくして不滅はない限り、個体であることが延長するならば最終状態が最終状態の欠如(すなわち悪)になり、個体であることが延長しないならば最終状態は何処デモナイ場所になってしまうからである。
「高野聖」(泉鏡花)にもそういうところがないか。それは、輪郭の放浪の報告であり、黙示である。
飽きが来ると、山中の一つ家に仮の宿りをした旅人が蝙蝠や猿や馬や蟇などに姿を変えられてしまうのは、metamorphosis ではなくparamorphosis であるが、仮の姿が別の仮の姿に引き出される凌辱は、うむをいわせぬ復活に引きずり出され審判の土壇場に引き据えられる震撼の如くである。
飛騨国の間道を信濃に抜けようとする若僧は「不思議な考え」に襲われる。神代から飛騨の森に息を潜めて充満している山蛭の最終状態に(時あって通りかかる旅人の生血を約束の量まで吸った山蛭が飛騨国を占拠して山が山蛭に変わり、山蛭が吐いた血と泥の大沼に変わり果てる終末に)つまり、超個体的なものに解けることに震撼するのである。このような「不思議な考え」は、襲うからには若僧は脅かされているのであり、そのために「知死期」に面している疲労と結びつけられ易い。同じように「知死期」に面して「野火」(大岡昇平)の場合には林を通る既視感に襲われる。しかしこれは、単なる日常性のエラー状態というより、二重の占拠も二重の通過も最終状態が「地獄から管を通されて」覚醒して、個体が震撼している気配なのである。


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