碧痕170 大あくびが盗まれているかの如く
170 大あくびが盗まれているかの如く
「出発は遂に訪れず」(島尾敏雄)は、南島の炎暑や、出撃の信令がなぜか届かない長過ぎる即時待機や、特攻後の光景であったはずの何も変わらない日常に単に身を曝しているのではなく、眼状紋の気配に抱き竦められて、身を隠していたいのに隠れなく、どう向き直ってもその気配を避けられないでいる。
この気配は、後に、妻の皮膚の下に何も隠れているものがないほど内臓があふれ出して(空っぽになることの埋め合わせのように)何もかもが意味深くなる嫉妬と訂正のきかない猜疑の気配となってぶり返し、包囲することになる。この、なぶるような包囲に意味があるとすれば、それは、絶対の命令に被曝しているのに、狼狽の効果から、命令系統の上部の薄汚い五厘刈頭の姿をして発せられる信令に目を瞑って身を曝すことである。
際限のない猜疑と詰問の針の莚に身を曝すことは、後ろ手に縛られた囚われの姫が髪や帯を乱して大枝から吊り下げられているようなもので、或いは、蛇身が妻の声帯を通して低音の裏声で威嚇するようなもので、責めと責め苦に区別はなく、8.14の南島では発作的に模写できなかった気配が、妻の顎、顔面を通して、大あくびを以て、眼状紋と眠り込む眼状紋とが同時に模写され、ぎょっとする。
大あくびが盗まれているかの如くであるからである。
「出発は遂に訪れず」(島尾敏雄)は、南島の炎暑や、出撃の信令がなぜか届かない長過ぎる即時待機や、特攻後の光景であったはずの何も変わらない日常に単に身を曝しているのではなく、眼状紋の気配に抱き竦められて、身を隠していたいのに隠れなく、どう向き直ってもその気配を避けられないでいる。
この気配は、後に、妻の皮膚の下に何も隠れているものがないほど内臓があふれ出して(空っぽになることの埋め合わせのように)何もかもが意味深くなる嫉妬と訂正のきかない猜疑の気配となってぶり返し、包囲することになる。この、なぶるような包囲に意味があるとすれば、それは、絶対の命令に被曝しているのに、狼狽の効果から、命令系統の上部の薄汚い五厘刈頭の姿をして発せられる信令に目を瞑って身を曝すことである。
際限のない猜疑と詰問の針の莚に身を曝すことは、後ろ手に縛られた囚われの姫が髪や帯を乱して大枝から吊り下げられているようなもので、或いは、蛇身が妻の声帯を通して低音の裏声で威嚇するようなもので、責めと責め苦に区別はなく、8.14の南島では発作的に模写できなかった気配が、妻の顎、顔面を通して、大あくびを以て、眼状紋と眠り込む眼状紋とが同時に模写され、ぎょっとする。
大あくびが盗まれているかの如くであるからである。


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