Thursday, June 05, 2014

碧空435 症状としての癲癇、命令としての癲癇

435 症状としての癲癇、命令としての癲癇  イッポリートの「不可欠の弁明」の発作は、Rousseauの「告白」の発作とは何か違う。それは、擬死のエラー(自殺)があたかもわざとではないかのように失敗することがまるで動機の如くであるからである。腹話の発作であることを隠してせめて怪談にならないように抵抗しているが、錯誤発作の連鎖を孕んだ制禦不能の愚弄のために誰でもなくなってしまう自分というものの、その現実そのものが錯誤じみているのに何か告白しないではいられないことの、その如何わしさにイッポリートは面食らっているというふうだ。  労咳のイッポリートも白痴のムィシキン公爵も愚弄されているが、一方は財には恵まれずもう一方は遺産に恵まれているだけでなく、ムィシキン公爵は癲癇にも恵まれていてイッポリートはそうではない、かに見える。しかし、擬死のエラーのエラー(擬死の発作なのに誤って自殺してしまう発作が不随意に誤作動してしまう自殺の失敗)といった連鎖する錯誤の痙攣性は、つまりは癲癇の仮面や、転生なのではないか。  イッポリートの労咳は擬死のエラーへ導くのではなく、そのサンドバッグ状態を通してムィシキン公爵の癲癇を精神分析する。その癲癇の影は公爵で、その影が癲癇を或る現在にすることは提喩であるが、その労咳の影は癲癇で、その影が労咳を或る現在にすることは隠喩である。イッポリートにも「ロゴージンの目」は顕れる。しかしそれは、癲癇の前兆ではなく癲癇の精神分析の前触れである。症状としての癲癇ではなく、命令としての癲癇の解として労咳が、腹話する労咳に転生するのである。公爵に症状として顕れた癲癇が、イッポリートの身体に労咳となって転生する、これは、精神分析のために、癲癇が症状であることから命令であることへ予期化して、霊的になるのである。この命令としての癲癇の、その、具体となって化けて出る症状は癲癇発作だけではない。

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