Friday, June 10, 2016

碧空784 人知れぬ、物語からの生還

784 人知れぬ、物語からの生還  孤独を体質的なもの、というより本能的なものと感じるや目に重瞳が現れる。擬態の気配を消そうとする擬態の野心の頓挫を、虚構の気配を消そうとする虚構の野心が埋め合わせようとして、何処か別の源泉からスーパー・ヴォイスが聞こえて来るのである。  捕食が何かなつかしく何か薄気味悪く迫るとすれば、それは、「迫真」と「真空」の間に物語からの生還の気配が震えるからである。オイディプスは、その輪郭喪失の苦闘が凝った告白を目を潰すことで初期化するが、それは、記憶を消去するというよりは物語から生還するために告白が打ち消されて予言に変態するのである。つまり、霊的になるのである。「黄金のトランク」(手塚治虫)の結末が、何事もなかったようにまた一日が始まる、その、差して来る曙光であるのは、この、物語からの生還であり、従って、この、経験と伝聞の区別がおかされた霊的気配に導かれて、いま終わったはずの物語が始まるのである。  「巴里の雨」や「風祭り」あるいは「半未亡人」(久生十蘭)のように、煙るような霧雨の中に、落葉の舞う中に、あるいは獰猛な熱帯のジャングルの沸き返る増殖の猖獗の中に沈んでいく酷薄の光景が、素材として間に合わせて演じているのは、独ソ不可侵条約締結と英仏の対独宣戦布告の緊迫した状況に呑まれるようにシベリア鉄道とドイツ船による航海とに男と女が岐れてパリでの再会を目指す駆け落ちであり、また、生死不明の通知を受けた半未亡人が篤志看護婦となって苛酷な前線勤務に出ずにはいらない衝動であり、引き裂かれていながらも、極度の乾燥の危機にアメーバーが四方から群集して一つの生体のようにのたうって移動を開始するような逆せ上がった感応である。逆せ上がることは、個や我を張ること、誰かであること何かであることの情熱とは何か違うが、熱平衡とも違う輪郭喪失である。それが異様なのは、他の誰かに降りかかっているかのように吹き替えられているからであり、その気配が、人知れぬ、物語からの生還なのである。

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