Saturday, February 25, 2012

碧痕158 転移としての身隠れ、身曝し

158 転移としての身隠れ、身曝し
 「エジプトで見た、紫の煙が立ち昇る」如き祈りと、暴れる祈りと、つまり、届くことを模写する祈りと、届かなさを模写する祈りとがあるのか。そうではなく、祈りは届かなさを模写し、立ち昇ってかすれ果てるか、あてどなく暴れるか、に岐れるのである。まるで狐を叩き出そうとするかの如く(水の中で力を振おうとしても何か力が入らずに空で)打擲する、そのような届かなさも祈りの如くである。
 身を隠していたいのに隠れないので、目を瞑って身を隠す、というのではなく目を瞑って身を曝す、というようにその後のジョルジュ・ローラン(「Hidden」M.Heneke)は生きて来た。その後とは、父が養子にしたアルジェリア人ハシェッドの息子マジッドを嘘の告げ口で追い出してしまった6歳のある日がいつまでも(しかし不省のままに)半ば過ぎ去らないでいる、その後であるが、TVを通して身を曝したジョルジュの、ランボーがどうのこうのと知ったかぶった姿は、底辺を這いつくばって来たマジッドには、内向する責めのひとかけらの気配もない(猫を被った)姿に映る。異種の鳥の巣に産みつけられたカッコウの雛が異種の鳥の雛や卵を巣から蹴落として生き抜こうとする、その逆の排除の場合なのか、何処からともない実体のない監視に目を瞑って身を曝すといった転移(狼狽の効果)なのか、つまり、責めが外部から(実体として)やって来るのを(祈る如く)ずっと待っていたとでもいうのか。
 一旦この世に嘘が忍び込むと何もかも嘘でないとは証明できない空気をことさらに送り込むために、隠しカメラで撮影されたビデオテープが繰り返し届けられる。それは、身を隠していたいのに隠れないことをことさらに突きつけて来るに過ぎないが、しかし眼状紋の示現のように不意をつくのである。

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