Sunday, June 16, 2013

碧騒317 不正義の症状の反芻

317 不正義の症状の反芻  Thomas Aquinasが見たもの凄いものも、「便所に入ったら、自分の体が見えなくなり、ただ小便だけが、あさがおの中に、走って行って消えた。」というような、音もない場所の崩壊、反射しない光、無量の空虚に被曝することだったろうが、そこには、個体が場所を占めるような安堵はないが、惰性もない。落下するのは体が縮むのであり、体を浮かせる深さが縮むのであり、重さが極まるのであり、光が反射しないどころか減速して光らなくなり、この世ならぬ忽光は光速度を突き抜けて、広がりと深さの区別がおかされている。  突然鮮やかに起こる発心というものは、もの凄い空虚に被曝することがもの凄い空虚の発見であるかのように、この世の音もない崩壊をこの世のものの跡形もなさが代表して目印にする、不正義の症状である。発心は、この世が解けることを選ぶかのようにこの世に留まって息を詰める。奇妙にも、それは鮮やかな転向に見えるのに、選択に面することに(意志の顕在に)留まっている。Thomasの場合、連祷じみた演繹、敷衍を衝撃的に断つのであるが、その断層は不正義の症状の履歴に過ぎなく、いつまでも消化できない不正義の症状の反芻のようなものである。  タイム・スリップの衝撃は、この世の広がりの基盤である光速度や、個体が場所を占める惰性に反抗する幽霊状態であり、この世の音もない崩壊をこの世の別の断面が代表して目印にして息を詰める。この世の深さの基盤である惰性が縮んで、この世の断面が浅瀬に上がってしまう。その落下は、二重の通過のようであるが、体を浮かせる深さは時間として刻まれている。それは鮮やかな転向に見えて、奇妙にも、服従の運動ではなく、窃視するように息を詰めている。

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