碧空609 地蔵菩薩の気配、その断面
609 地蔵菩薩の気配、その断面
山間の隠沼のように潜む村落を峠から見下ろすような媒質変化は、次元減衰していた断面が解ける落下であるが、それがUrashimaの場合は時の断崖に置き去りにされ、一気に年をとる(しかも声にならないほどにスロー・モーションの)叫びなのである。
漱石の「道草」は、子供が龍や雀の宿に呼び出しをくらうように、過ぎ去ってはいなかった因縁の顕現に一気に身が縮んで一寸法師になる、といったふうだ。
真っ逆さまの加齢も身の収縮も、落下、媒質変化、漠とした疚しさの気配を発作的に模写しようとするのである。地蔵菩薩の猛威は義の症状となって持ち越されるが、義の症状が如何わしいのは、責めというものは解かれなければならない問だからである。こうした葛藤や縁生を解こうとする思考も、人の姿をした他の誰かの心臓を通して送り込まれて来る。そうした思考も選択能も不随意筋のように(他の誰かの身体で鼓動を打つように)はたらいているからで、その零落(義の症状)は精神分析的である。しかも「もうひとりいる!」気配や「どこかで会っているはずだ!」といった地蔵菩薩の気配の、その断面はミステリやタイム・スリップにいつでも分岐しそうでもある。


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