Friday, December 18, 2015

碧空671 予言がかかるcomplete privacy

671 予言がかかるcomplete privacy  科学がそうであるように物語は一般化の試みであり、問としての物語と解としての物語は解離しようとするが、ややもすれば腹話術がかかる。流された貴種への関心、王や恋人たちの不運を共にしようとする浄化は、予言がかかる。問としての運命と解としての運命が解離し切らないで、予言は先立たなくなる。  解としてのthe Christの出現はcomplete privacyであり、solitudeの失効であり、釘づけの磔刑の十字の含蓄は、解としてのJesus と問としてのthe Christが解離しないのである。解離するやたちまちJesus Christは現実であるが、如何わしい存在になる。  complete privacyは他の誰かを要請しないが、この如何わしい存在は他の誰かを要請するだけでなく、他の誰かに呼び出されなければならない。この二重の要請が信仰(追従衝動)の基盤である。Jesus Christが如何わしい存在である限りで、この追従衝動はJesus Christを呼び出すことである。  ヨクナパトーファ郡(W.Faulkner)の広がりと深みの、付加的、漸層的叙述の累積は、この追従衝動に酷似している。それは、ヨクナパトーファ郡の奥行を呼び出し続けている。しかし、ヨクナパトーファ郡が孕むこの世ならぬものの忽然とした出現(apparition-like suddenness)は、他の誰かを要請しない。  軍の命令系統の、兵士を前線の細部へ順次段階を経て導く命令が次第に漸層的に具体性をズーム・アップしていくように、Faulknerの延々と続く付加的、漸層的叙述は細部の縁生のズーム・アップであり、しかもいつの間にか、拡大されるのは細部から細部の媒質である時間に転位して、スロー・モーションを羽織ってしまう。それは、潜伏しているnarratorが浮かび上がって来てしまい、解としての運命と問としての運命が解離し切らなくなるのである。それは、単に或る運命に寄り添うだけでなく、物語ることの、その希望の症状の報告である。  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとカメラ・アイを換えながら細部を走査、検索してズーム・アップを繰り返しているうちに拡大される細部が時間に転位するのであれば、それは、解として導かれた前線の一般化ではなく、他の誰かを要請しないcomplete privacyである。

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