碧空904 コンスタンティン・コンスタンティウス(自食の範疇)
904 コンスタンティン・コンスタンティウス(自食の範疇)
モリアの山へ騎行するアブラハムを襲っている出来事、鏡像や死体、公ケノモノ、普遍的なものが誘惑になるような試煉は、アブラハム的な範疇であるにしても、そのために範疇の頓挫であり、次元スリップするイロニーから脱け出せない。
コンスタンティン・コンタンティウス(1843年コペンハーゲン)とは、コンスタンティン・コンスタンティウスの範疇が特殊な限界づけをするそばから一般的語彙に解消して、しかし公ケノモノになるのではなく沈黙してしまう、つまり、公ケノモノの如く微行(お忍び)するユーモアである。
その「反復」はunlearn の二重の運動(次元スリップするイロニー)であるが、そのために一般的語彙としての反復に解消してしまう。「反復」では、焦燥や予期が満ちるように「想起」が起こるが、それは種の霊的抽象(問)がこの世のもの(解)となる次元スリップであるために、問と解の解離は「想起」を打ち消すことになる。
この、個虫が部分の振りをする無性生殖的な自食の範疇は、問と解が解離しないならば、普遍的なものが偶然の個の振りをしたり、この世がこの世のものの振りをしたりして、この世に安らわない。それは、陰謀や追跡や監視などの気配に変装しなくても、釘づけの磔刑のJesus Christのように薄気味悪く迫る。
Dracula の棲息条件は、すなわちトランシルベニア的なものとは、普遍的なものに安らわないこと、この世にも母国語にも安らわないこと、しかしこの輪郭喪失は性感帯そのもの、誰と入れ替わったのか分からないというよりもっと他の何か細胞が入れ替わってしまうような自食の、Erosの遡上というようなものである。それは、美の忽然とした出現のように法則的にも歴史的にも把握できないが、その裂目は発作的に模写される。美のように、存在するものであるにしても存在に安らうようなものではなく、存在することになるのが疑わしいが、大きく目が見ひらくのである。


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