Monday, May 25, 2020

碧空1749 nautilus92(自由の実験、自由落下の実験)

1749 nautilus92(自由の実験、自由落下の実験)  「植物園のほの暗い蛇小屋の中で、二人のセネガル人の兵隊がキング・コブラをからかっていたが、その小柄な褐色の肌の男が跼り、赤いフェズ帽で打つ真似をすると、蛇は激怒して、左右に体を動かし、鎌首をもたげるのだった。」(「パリ、1922年」E.Hemingway)  「パティニョール行きの七時のバスの混んだデッキに立っていて」、「バスが街燈に照らされた道をよろけながら走っている間、夕食のために家路に向う乗客たちは、車が雨で濡れそぼっているノートル・ダム寺院の前を通り過ぎても、読んでいる新聞から全然顔を上げようとしなかった」。「カンボン通りとベルンハイム・ジューヌ店の間のマドレーヌ大通りで男を拾う片脚の売春婦が、ある雨の夜、肉付きのいい赭ら顔の監督派の牧師に雨傘を差しかけてもらいながら、跛を引き引き人混みを縫っていく」、  Hemingway がシカゴ・トリビューン紙の特派員だった頃のパリ素描であるが、「パリ、1922年」と見出しを添えると、この伝達は魔法がかり、この、霊的でなくなるはずの表現はカメラ・アイや月光の如くどんな片隅にももぐり込んで真に迫る伝達の振りをする。そののぞき穴に後れて来るはずの主体が早く来過ぎてしまって焦燥や憂愁が「パリ、1922年」を覆いかけるか、途中までしかやって来なくて、霊的でなくなるはずの「パリ、1922年」は宙に浮いてしまう。「パリ、1922年」は真実となって亡命するのではなく、この、忘れないように忘れる偽は自由落下の実験なのである。  こうして「パリ、1922年」の本当の持ち主は失踪して、「Wakefield」(N.Hawthorne)がまるで潜望鏡でのぞき続けるような(しかし、自由の実験にはならない)死後であるはずの景色のように、その本当の話し主は失踪して、初めてなのにtwice-told、消去しないように消去する偽なのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home