碧空439 隣人を写真撮影する
439 隣人を写真撮影する
ナスターシャ・フィリッポブナもアグラーヤも、反語的なのはなぜか。それは、隣人と袖触れ合うために打ち消されたものの、その地獄のヴォリュームが潜伏し切らないで浮上してしまうからである。アグラーヤがナスターシャ・フィリッポブナを呼び出す、しかも奇妙にもナスターシャ・フィリッポブナの居所に呼び出すのであるが、それは、鏡に顔を映し出すようなもので、しかも映し出された顔に圧倒されてしまう。しかし高笑いやげらげら笑いの二人とも、Jesus Christほどにはグロテスクではない。隣人になるユーモアが不足しているからである。
ロシアの大地が現実であるための、その最終状態は意味であるが、意味としての「ロシアの大地」を写真撮影するとペテルブルグが写ってしまう。同じようにして、しるしとしての「ペテルブルグ」を写真撮影するとナスターシャ・フィリッポブナが写ってしまう。このナスターシャ・フィリッポプナが反語的なのは、神も虚無も打ち消せないからである。結婚式の正に直前で、恥辱の甘受こそはナスターシャ・フィリッポブナを駆り立てる責めであるはずなのに恥辱から逃亡するかのようにナスターシャ・フィリッポブナは姿を晦ますが、それはJesus Christが釘づけの磔刑の十字から復活を以て姿を晦まし、隣人となって局在・遍在しはじめる、そのようにではなくロゴージンに器官を延長して姿を晦ますために、ユーモアが不足してしまう。しかし、目まぐるしく反語的であることを鎮めるために、ロゴージンはナスターシャ・フィリッポブナを終にベッドに展翅してジダーノフ防腐剤を施さないではいられないが、転移発作として隣人を殺すと、すなわち隣人を写真撮影すると(なんと)誰も写っていない(場所が写ってしまう)グロテスクの圧倒に面して、レフ・ニコラエヴィチ・ムィシキンの発作は、聾唖の霊に凌辱されることなのである。


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