碧空721 未来の身体、身体の最終状態
721 未来の身体、身体の最終状態
「人間的」も「超人的」も「私」というものの症状の変態である。Nietzche的であることは、「運命」が「自由、孤独、思考」に見張られているのであるが、その「自由、孤独、思考」は、「運命」の過剰反応、エラーであり、「運命」が間に合わせたものでしかない「私」を「狐憑き、類、生首」が見張っていることへの反抗である。こうした「私」というものの二重生活の解離が「人間的」、解離しない二重生活が「超人的」なのあるが、どちらへ変態しても何か癒されるかのような振動なのである。
そもそも、生きることへの命令がどの世代にも属さないからには、どんな命令も如何わしい。「超人的」とは、そうした命令と同じようにして如何わしい服従とが分業して貴族的階級を占めることなどではなく、命令と服従が解離しない(その基盤として記憶と予感が解離しない)従って問としての霊的命令と解としてのこの世のものが区別されないだけでなく、本能と道徳の区別もおかされている。これは、透視だろうか。記憶と予感が解離しない服従(解、罰、身体)は、打ち消されて潜伏する命令(問、罪、魂)が具体となって即興的に藻掻き出る埋め合わせ、霊的抽象を映し出す媒体であることを隠せない。未来の身体は罰の如く繰り返されるが、その反復は、罪こそが身体の最終状態であるからである。
こうして、この世が、「私」が、何も変わっていないのに変態する媒質変化は、陸軍礼式挙手のように、奇妙にもまるで拷問なのに癒すかのようである。


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