Thursday, April 07, 2016

碧空745 カフカ的狼狽の起原

745 カフカ的狼狽の起原  反対命題に見張られているために、ゲオルクの父を通して(すなわち父を覗き穴として)見る、ロシアにいるはずの友人とは、実は鏡を覗き込んで見るゲオルクの鏡像なのである。  場所を占めるもの(この世のもの)は場所(潜伏する霊的形式)を媒体とした鏡像であるが、鏡像の気配を消している。この世のものとして霊的形式を透視することの不能であるが、ロシアの友人としてゲオルク(問としての命令)を透視することがゲオルク(解としてのこの世のもの)の鏡像に零落して(しかも鏡像の気配を消せないで)救出を待つ症状になるのは、媒体であることが、ロシアの友人(具体)から場所(潜伏する霊的形式)に次元を移すのではなく、反対命題としての父に移ってしまうのである。つまり、この世のものの占める場所が反対命題に入れ替わってしまうのであり、ゲオルクの鏡像は金縛り状態で「霧のなかで口をパクパクさせ」るのである。「ロシアの友人」は、ゲオルクの反対命題に浮かぶ半具体を乗り越えていかない。(「判決」F.Kafka)  このように、媒体であることが解としての具体から、その具体が占める場所に次元を移すことに面して、狼狽から(というのも、その場所とは、問としての命令が解としての具体に化ける(従って)と同時に打ち消されて場所となって潜伏する意識の出現であるからであるが)、場所から反対命題に媒体であることの次元が(転移発作的に)移ってしまうのだろうか。  そもそも、問としての霊的命令が一つの解として具体となって化けて出る即興に驚くように、狼狽するように、この霊的形式はこの世のものの占める場所となって潜み返るかのようなのだ。

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