碧空741 種の夢想は見張られている
741 種の夢想は見張られている
「I am the resurrection 」この、無も同然の肖像写真が変態して、隣人性(manifest in another form)に面することは「絶景」に出るのである。それは、襲う。それは光景3救出を待つ症状に忽ち変態して、失語症のように両極端に走る。極端に私的であることは無差別の極、被雷であって避雷ではない。
直しさや「私」と呼ばれる擬態の法則性、歴史性は、「変わり易い力」に貫かれた種の夢想であるが、或る歴史がそれが編纂される時代や地域の関心(問としてのエトス)に答えるのであるとすれば、その歴史は入れ子状態になる。この写真術は、つねに部分(本質としての或る場面)が全体としての或る歴史を相似関係で代表するからである。タイム・スリップしたように(極端に私的に)或る今に居合わせるツキディデス的な光景3は半ばこの世のものである限り言霊のように失語状態である。この場面がペロポネス戦争であっても、隣り合う(別の相貌で顕れる)場面もペロポネス戦争かどうか疑わしく範疇が使いこなせないのである。一方、ヘロドトス的な歴史は、エトスの複数の解の間に種のように出現する。
ヘロドトス的なものは法則的で、訂正可能、科学寄りの態度であるが、ツキディデス的なものは両極端に走るために訂正不能なものの突出であり、懐疑と区別がつかない。ワーテルローの戦いのど真ん中で、これは本当にワーテルローの戦いなのだろうか、と突如として方角を見失うような奇妙な覚醒である。誰でもよかったはずなのに極端に私的に狙撃されていて、同一のものや個というものが崩壊するとも剥奪されるともつかない通り魔事件やテロや疫病のように(自転車に乗った警官や照明弾が描く奇妙なカーヴ(「死者の博物誌」E.Hemingway )のように)降りかかるのである。「年長けてまた来ゆべしとは思いきや」(西行法師)がこの世の感慨深さというものに零落、変態する直前の、魘されるような覚醒の(思いがけず崖の端に出たような「絶景」の)、その救出を待つ症状である。
Jesus Christは、変態するし、変態を扱う。しかしそれは自由自在にではなく、不随意にである。「I am the resurrection and the life」という腹話術のかかった(「地獄から管を通された」)告白と「私」の変態は、「私」と呼ばれる何か一貫して不易なものが解脱して変態する、謀反と革命(insurrection)である。種の夢想は、このようにして見張られている。


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