碧空750 超絶馬術、超絶記憶、超絶生殖
750 超絶馬術、超絶記憶、超絶生殖
「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」この人馬一体の境地は、聖カタリーナが「お前が存在するのではない、私が代わりに存在する」と口走るような臨在、解としてのこの世のものとして問としての霊的命令を透視する、その媒体性の発覚を半ばこの世のものの次元に移していて、馬懸かりなのか人懸かりなのか分からない。それは馬術ではない。人(の魂)が打ち消され場所となって馬の躍動を映すのであれば、人の器官の延長としての媒体性が馬に顕れることは馬術であるが、馬が存在するのではなく人が代わりに存在する(従って、人が存在するのではなく馬が代わりに存在する)というような再発は、馬術を超絶している。
「私」というものを脱皮して後にしたはずの「私」へ出てしまう絶景、復活と口走りたくなる絶景、既視感は、「私」というものの覚醒に面して一体誰が覚醒したのか分からない。場所の霊的形式は無であるが、無がこの世に侵入する無の覚醒、この世の場所として無を透視する既視感は、霊魂が保持されていないことに面して狼狽から霊魂の保持に反転する転移発作である。つまり、「お前が存在するのではない、私が代わりに存在する」というような声の気配が宙吊り状態のままに半ばこの世のものの次元に転位して、記憶を超絶している。
一目惚れにあっても、この声の気配が救出を待つ症状に脱皮している。これは、半身の境地、しかも生殖を超絶した隠沼に(密通の如く)出て、忽光を発作的に模写しているのである。


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