Saturday, April 16, 2016

碧空751 動機、擬似摂理、NOSTALGHIA

751 動機、擬似摂理、NOSTALGHIA  ミステリでは、摂理は動機に変装し、心身耗弱や喪失は扱わない。復讐譚では、痕跡から全体へ推して動機に至るはたらき(平均化、提喩)は反転して擬似摂理から一隅へ下って何か潔白ではない漠とした責めを解が贖う。擬似摂理は意図なのか意図不明や制御不能の錯乱なのか分かりにくい。「緋色の研究」(C.Doyle )が二部からなるのは暗示に富んでいる。第一部はミステリ(謎解き)であり、第二部は復讐の告白である。一隅に残された死体や痕跡から殺害の動機や方法へ至ろうとする謎解きの観点には、正体を現わす瞬間へ秘密に謀られた復讐の告白の観点が潜り込んでいる。動機を説明する独善と利益の観点には抗い難い擬似摂理の観点が潜り込んでいるのである。これこそは秘密である。動機の次元では暴かれないこの霧の中の秘密に遡ろうとする試みは、松本清張のように見通しのきかないほどに入り組んだ分業や時代への追及、さらには横溝正史のように込み入った血筋への追及がある。それは、秘密が私的であることではなく、私的であることの剥奪すなわち媒体であることへ向う。従って、ミステリと復讐譚の分岐点には、オイディプスの話のようなものが位置している。オイディプスが漠として追い詰めないではいられないのは、独善と利益に潜り込んでいる何か説明し難い命令を分析されたがっており、それが正体を現わすかに見える瞬間へ引き出されたがっているからである。こうした瞬間に、暴かれなさと隠れなさが出会う。「緋色の研究」がこうした瞬間を欠くのは、オイディプスのように犯人を捜すものが実は犯人である、というような収斂と痙攣の瞬間が分割されて、その分業が緊張を緩和しているからである。  「審判」(F.Kafka )のKは、何もしていないはずなのに何か潔白ではない漠とした責めに追い詰められていて、それはnowhere to hide の発覚であり、追い詰められた断崖でいつでもタイム・スリップしそうである。このタイム・スリップこそは、「アメリカ」(F.Kafka )の、その失踪の未来の流転が解として贖うNOSTALGHIAである。というのも「独身者」カール・ロスマンは、未来が経験されてしまっている「自殺者」、収斂と痙攣の超絶瞬間だからである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home