碧空1783 nautilus126(盗まれている生命「の」贖罪)
1783 nautilus126(盗まれている生命「の」贖罪)
燔祭が贖罪であり、生命を贖うのだとすれば、ヤーウェの前に出ることは罪の気配が圧し迫るだけでなく、殺される危険を冒すことである。盗んだ生命は、単に「目には目を」式に償わなければならないからである。さもなくば、牡牛や羔羊を犠牲にして、あるいは貨幣を以て盗んだ生命の埋め合わせをする契約なのである。
盗まれた群の生命、と感じられるのは、それが霊的でなくなってこの世のものになるということが、それを忘れないように忘れるmetamorphosis だからである。モーゼは漠として疾しく、ヤーウェがよく思い出せないし、ヤーウェは漠として嫉ましく、モーゼがよく思い出せない。そのようにして、モーゼはmetamophosis の、その輪郭喪失を代表するのである。
盗まれている生命を「目には目を」式に償って返すことと、牡牛や羔羊を犠牲にして返すことの中間に、アブラハムが息子イサクを差し出すことが位置しているように見えるが、どれもこれもどうしてそれで贖罪になるのか!何か痞えたままに発作的に贖罪金に転移、解消することにもなるが、痞えが解消するのではない。その説得力は、贖罪の祭祀のための器具や衣装などの飾り立てられた備えや諸々の凝りに凝った作法と変わらない。どうして上着の裾にぶら下げた金の鈴が鳴っていれば、「目には目を」式に生命を取られずに済むのか。こうした外延的な付加物は、(もう魂を差し出しているのに)どう魂を差し出せばいいのか分からない狼狽からの、転移発作的な彷徨に過ぎない。
盗まれている生命の贖いは、その霊的生命がこの世のものになる亡命である。モーゼが流されるのは、そのことの劇化、イラスト、あるいは単に流されないではいないのである。問としての群の生命が解としての霊的でなくなる偶然や個や、悪や偽や症状といった奇形となって息づくmetamorphosis そのものが、贖罪なのである。
つまり、罪と贖罪の飛躍的関係は、問と解の次元跳躍的関係の注釈である。Faust 博士は、生きることの思いがけない秘密は遺産ではなく、魂を差し出すことであることを、初めから知っていたはずだが、Mephistophelesとなって尨のようにつきまとうのは、彷徨と贖罪の、その外観の差異のピンぼけ状態である。


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