碧痕78 発芽(本質の剥奪)
78 発芽(本質の剥奪)
大衆は、「鉄腕アトム」に感染保存されているために度忘れの状態でいられる何かを漠として嗅ぎつけている。それは何か。すなわち、呼び出されなければ成らないロボットであること、その奴隷性である。そのために、この消耗品でしかないロボットに「私」というものが覚醒することが衝撃でもあり、何か変でもある。「私」というものを代表するのが「自由、孤独、思考」であるのに、「私」というものも呼び出されなければ成らない、そのことが漠とした混乱、もどかしい葛藤になるのである。
「私」というものは何か嘘じみている。「鉄腕アトム」の如何わしさは、このことの隠喩である。アトムは、命令を映し出す服従の運動であるのに、その誕生が飛雄を写し出す「理想」としての単純化であるために飛雄であることの不正とつるつるの身体とが乖離し、飛雄を写真の如く保存はするが、その成長をつるつるの身体は模写できない。しかし、つるつるの身体の日常性は、五百のアトムの間に(五百の命令を映し出す五百の服従の間に)「私」というものを呼び出してしまうのである。それは、成長が重力に反抗するように、消耗品であることに抵抗する。成長しないアトムはせめてもの埋め合わせに重力に抗って飛ぶが、冒険としての二足歩行から飛行へ器官の延長を重ねることを通して、消耗品であることに抗する冒険として「私」というものを鎧うのである。
そもそも、飛雄は天馬博士の器官の延長であり、アトムはその身代わりである。しかし、この分身は流産している。飛雄はアトムに乗り移るが、アトムは飛雄に乗り移らないからである。つまり、天馬博士が、飛雄が器官の延長に過ぎないことを打ち消しているのである。アトムは、器官の延長の複写ではないこと、このことが、器官の延長としてのアトムが「私」というものを鎧うことの、その疚しさの潜伏を漠として増幅するのである。
技術としての有性生殖を廃棄すること、飛雄からアトムがヒドラのように発芽していること、この、技術としての発芽は、「ブリキの太鼓」奏者オスカル(G.Grass )に於いては、成長の中断となって変奏されている。アトムの身体からは更に単純化されたアトムが発芽することはないが、オスカルの器官の延長として発芽する「ブリキの太鼓」はオスカルを写し出す。この、歴史的到達・保存の、その虚構のエラー状態、一枚の写真(「ブリキの太鼓」)から一気に拡張して一気に収縮する、その痙攣的な虚構の気配が消えずに胸は張り裂けんばかりになる。この決壊、この致命的作用を「ブリキの太鼓」はとどろかせる。履歴改竄して生き延びたオスカルの祖父が祖母の四枚重ねのスカートの中に隠れていた時にオスカルの母は孕まれたのではなく、発芽したのであり、オスカルの祖父は発芽の触媒に過ぎないこと、このことを証明する責めを負って、オスカルも「ブリキの太鼓」も発芽し、更には有性生殖に誘導される成長が凍結される。
その死体が極端に私的であることを押し通したオスカルの祖父の履歴改竄を、オスカルを写し出す「ブリキの太鼓」の、その発芽は模写する。つまり、それは特別なものであるはずなのに何とでも入れ替わる。起源が移動して来ていることの促進であるかのように、それはとどろく。トンボを切って変身に勢いをつけるように、オスカルの成長の中断に(擬態の半解脱に)勢いをつけるのは地下室の底に転落することである。一寸法師オスカルは法則も覗き穴も鎧っているが、歴史的到達・保存の、その虚構の気配が消えない限りでオスカルの誕生は誰とでも入れ替わる発芽(本質の剥奪)であり、有性生殖を擬装していたとしても、ユピテルが放火犯に或いはヴィーナスが馬鈴薯を焼くスカート四枚重ねの女に化けて出るというように、密通の気配が祟り返す。この世の初めの「ブリキの太鼓」は、密通の果実であるエロスがしかも密通に先立つように、オスカルの器官の延長であるのにオスカルの発芽に先立つ。
このようにして「ブリキの太鼓」は物語としての「ブリキの太鼓」を叩き出す。
大衆は、「鉄腕アトム」に感染保存されているために度忘れの状態でいられる何かを漠として嗅ぎつけている。それは何か。すなわち、呼び出されなければ成らないロボットであること、その奴隷性である。そのために、この消耗品でしかないロボットに「私」というものが覚醒することが衝撃でもあり、何か変でもある。「私」というものを代表するのが「自由、孤独、思考」であるのに、「私」というものも呼び出されなければ成らない、そのことが漠とした混乱、もどかしい葛藤になるのである。
「私」というものは何か嘘じみている。「鉄腕アトム」の如何わしさは、このことの隠喩である。アトムは、命令を映し出す服従の運動であるのに、その誕生が飛雄を写し出す「理想」としての単純化であるために飛雄であることの不正とつるつるの身体とが乖離し、飛雄を写真の如く保存はするが、その成長をつるつるの身体は模写できない。しかし、つるつるの身体の日常性は、五百のアトムの間に(五百の命令を映し出す五百の服従の間に)「私」というものを呼び出してしまうのである。それは、成長が重力に反抗するように、消耗品であることに抵抗する。成長しないアトムはせめてもの埋め合わせに重力に抗って飛ぶが、冒険としての二足歩行から飛行へ器官の延長を重ねることを通して、消耗品であることに抗する冒険として「私」というものを鎧うのである。
そもそも、飛雄は天馬博士の器官の延長であり、アトムはその身代わりである。しかし、この分身は流産している。飛雄はアトムに乗り移るが、アトムは飛雄に乗り移らないからである。つまり、天馬博士が、飛雄が器官の延長に過ぎないことを打ち消しているのである。アトムは、器官の延長の複写ではないこと、このことが、器官の延長としてのアトムが「私」というものを鎧うことの、その疚しさの潜伏を漠として増幅するのである。
技術としての有性生殖を廃棄すること、飛雄からアトムがヒドラのように発芽していること、この、技術としての発芽は、「ブリキの太鼓」奏者オスカル(G.Grass )に於いては、成長の中断となって変奏されている。アトムの身体からは更に単純化されたアトムが発芽することはないが、オスカルの器官の延長として発芽する「ブリキの太鼓」はオスカルを写し出す。この、歴史的到達・保存の、その虚構のエラー状態、一枚の写真(「ブリキの太鼓」)から一気に拡張して一気に収縮する、その痙攣的な虚構の気配が消えずに胸は張り裂けんばかりになる。この決壊、この致命的作用を「ブリキの太鼓」はとどろかせる。履歴改竄して生き延びたオスカルの祖父が祖母の四枚重ねのスカートの中に隠れていた時にオスカルの母は孕まれたのではなく、発芽したのであり、オスカルの祖父は発芽の触媒に過ぎないこと、このことを証明する責めを負って、オスカルも「ブリキの太鼓」も発芽し、更には有性生殖に誘導される成長が凍結される。
その死体が極端に私的であることを押し通したオスカルの祖父の履歴改竄を、オスカルを写し出す「ブリキの太鼓」の、その発芽は模写する。つまり、それは特別なものであるはずなのに何とでも入れ替わる。起源が移動して来ていることの促進であるかのように、それはとどろく。トンボを切って変身に勢いをつけるように、オスカルの成長の中断に(擬態の半解脱に)勢いをつけるのは地下室の底に転落することである。一寸法師オスカルは法則も覗き穴も鎧っているが、歴史的到達・保存の、その虚構の気配が消えない限りでオスカルの誕生は誰とでも入れ替わる発芽(本質の剥奪)であり、有性生殖を擬装していたとしても、ユピテルが放火犯に或いはヴィーナスが馬鈴薯を焼くスカート四枚重ねの女に化けて出るというように、密通の気配が祟り返す。この世の初めの「ブリキの太鼓」は、密通の果実であるエロスがしかも密通に先立つように、オスカルの器官の延長であるのにオスカルの発芽に先立つ。
このようにして「ブリキの太鼓」は物語としての「ブリキの太鼓」を叩き出す。


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