碧騒393 いきなり犯人は籖で決まる
393 いきなり犯人は籖で決まる
1「石巻から乗った自動車が、岡の麓の路を曲がって渡波の松林に走り着こうとする時、遠くに人と馬との一団が、斜めに横たわって休んでいると見た瞬間に、その馬が首を回して車を引いたまま横路に飛び込んだ、小学校を出たばかりかと思う小さな馬方が、綱を手にしたままころんだとみた時には、もうその車の後の輪が一つ、ちょうど腹の上を軋って過ぎた。それでも子供はまっすぐに立って、三足ほど馬を追って振り返ってちょっとこちらを見て、腹を両手で抑えてまた倒れた。」(「子供の眼」柳田国男)
2「大雨の小止みの間に、釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと、曳船を頼むといって濡れた舟が一つ、岸に繋いであるところへ一群の人が下りてくる。石巻の医者へつれて行くチフスの病人と聞いて、事務員がめんどうな条件ばかり出すのを、一々首をもって承認して釣台を担いで乗ろうとする。年とった女が二人付いてくる。荷の軽さが子供らしいので、なるべくのぞくまいとしていたのに、やはりはずみがあってその子供と目を見合わせた。」(「子供の眼」)
1の潜在内容は、おりもおりこの刻限に、どうして通り合わせることになったか、2は、山中、旅の僧と狩人が松明の光で見合わせるという類の(発心を催すような)遭遇、である。1では、手配の狂いや度重なる計画の変更があって、それがまるでその刻限にドンぴしゃに通りかかるように調整、導かれていたかの如く、2では、そのはずみは、何か狙い澄まされているのでもなければ届かないほどにもの遠く、闇はもの深い。
どちらも寸分の狂いもないことが、根底から疑わしくして、何か決定的に取り消しがきかないが、どこまでも間に合わせなのである。日常では解離しているこの葛藤は、段階を踏んで分節しても、いきなり犯人は籖で決まる。この犯人は中間を占める身分ではなく、影がおどむのである。
柳田国男の場合、物へゆく霊的興味は寂漠である。この霊的抽象が予期している葛藤の一つが清光館の没落(「雪国の春」柳田)で、「野火」(大岡昇平)の煙が「私」が行くために上がるように、清光館が没落しているのは柳田が久しぶりに行くためである。しかし、本当の犯人の接近に光り出したのは、子供の眼や清光館の没落そのものではなく、寂漠で、場所があふれ出している。「子供の眼」や「清光館哀史」の分節は、寂漠を鎮めようとして中間に漂い出すしるしである。


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